日本にほん文化ぶんか

第五章だいごしょう 室町時代むろまちじだい文化ぶんか

第一節だいいっせつ 学問がくもん思想しそう宗教しゅうきょう

室町時代むろまちじだい学問がくもん中心ちゅうしんになったのは禅僧ぜんそう公家くげで、中心的ちゅうしんてき機関きかんは「五山ござん」である。「五山ござん」とはいつつの臨済宗りんざいしゅうおおきなてらのことで、幕府ばくふさだめた最上位さいじょういてらである。また、政治せいじめんではちからうしなった公家くげ貴族きぞく)は、有職故実ゆうそくこじつ伝統でんとう官職かんしょく儀式ぎしき研究けんきゅう)、和歌わか古典こてん研究けんきゅうおこない、古典文化こてんぶんかまもろうとした。

一方いっぽう応仁おうにんらん(1467-77)できょうみやこ荒廃こうはいしたため、公家くげ禅僧ぜんそう地方ちほうげ、かれらの文化ぶんか地方ちほう普及ふきゅうした。その代表的だいひょうてき人物じんぶつは、石見国いわみのくに現在げんざい島根県しまねけん)にのがれ、のち薩摩国さつまのくに現在げんざい鹿児島かごしま)にまねかれた桂庵玄樹けいあんげんじゅ(1427-1508)である。桂庵玄樹けいあんげんじゅは、薩摩国さつまのくに桂樹庵けいじゅあん儒学じゅがくおしえ、朱子学しゅしがく一派いっぱである薩南学派さつなんがくはひらいた。

室町時代むろまちじだいは、武家ぶけ文化ぶんかちからった時代じだいだが、武家文化ぶけぶんか仏教ぶっきょう融合ゆうごうひとつの特徴とくちょうである。宗教しゅうきょう重要じゅうようなものには、禅宗ぜんしゅうがある。禅宗ぜんしゅうは、中国ちゅうごくからつたえられ、武家ぶけあいだ人気にんきはくした。五山ござんにもさだめられ、武家ぶけからの保護ほごけるなど、ぜん精神せいしん室町文化むろまちぶんか全体ぜんたいおおきく影響えいきょうした。

仏教ぶっきょうは、地域ちいき身分みぶんによって流行りゅうこうする宗派しゅうはちがいがられた。たとえば曹洞宗そうとうしゅうは、庶民しょみんあいだ地方ちほうさかんになり、日蓮宗にちれんしゅう京都きょうと商業人しょうぎょうにんあいだひろまった。また、浄土真宗じょうどしんしゅう蓮如れんにょ(1415-99)は、本願寺教団ほんがんじきょうだん再興さいこうし、一大勢力いちだいせいりょくへと発展はってんさせていく。これは一向宗いっこうしゅうともばれる。一向宗いっこうしゅう信徒しんとは、その信仰心しんこうしんもと団結だんけつし、守護大名しゅごだいみょう圧迫あっぱくするまでになっていった。この時代じだい庶民しょみんちからけ、集団しゅうだん大名だいみょう政治的せいじてき要求ようきゅうきつける行動こうどうられるようになる。これを「土一揆つちいっき」という

学習がくしゅうポイント

1. 室町時代むろまちじだい学問がくもん思想しそう宗教しゅうきょう

2. 北山文化きたやまぶんか東山文化ひがしやまぶんか

3. 村田珠光むらたじゅこうと「わび茶ちゃ

4. 雪舟せっしゅう狩野派かのうは水墨画すいぼくが

5. のう狂言きょうげん御伽草子おとぎぞうし

が、一向宗いっこうしゅう信徒しんとおこなった一揆いっきは「一向一揆いっこういっき」とばれた。この一向一揆いっこういっきなかでは「加賀一向一揆かがいっこういっき」(1474-75)がとく有名ゆうめいである。

いち五山文学ござんぶんがく

鎌倉時代末期かまくらじだいまっきから室町時代むろまちじだいにかけて禅宗ぜんしゅうてらおこなわれた漢学かんがくが「五山文学ござんぶんがく」で、これがまさに五山文化ござんぶんか中心的ちゅうしんてき位置いちめていた。五山文学ござんぶんがくは、中国大陸ちゅうごくたいりくから日本にほんわたってきたそう日本にほん留学僧りゅうがくそう日本にほんにもたらした知識ちしきもとになっている。漢文かんぶんかれた。五山ござん京都五山きょうとござんでは、幕府ばくふ外交文書がいこうぶんしょ起草きそうしたため、漢詩かんしつく才能さいのう重視じゅうしされた。そういう事情じじょうもあって、五山文学ござんぶんがくさかんになっていった。代表的だいひょうてき作品さくひん義堂周信ぎどうしゅうしん(1325-88)の『空華集くうげしゅう』、絶海中津ぜっかいちゅうしん(1336-1405)の『蕉堅藁しょうけんこう』などがげられる。

五山版ござんばん 五山文学ござんぶんがくさかんになるのにともなって、五山ござん中心ちゅうしん書籍しょせきおお出版しゅっぱんされた。とくにこの出版活動しゅっぱんかつどうさかんだったのが、京都きょうと天龍寺てんりゅうじ雲居庵うんごあん臨川寺りんせんじで、活動かつどう熱心ねっしんだった人物じんぶつとしては春屋妙葩しゅんおくみょうは(1311-88)などがよくられている。これらの出版物しゅっぱんぶつ木版印刷もくはんいんさつ作成さくせいされ、貴重きちょう資料しりょうとしての価値かち大変たいへんたかい。「五山版ござんばん」は、印刷いんさつ変遷へんせん歴史的れきしてき資料しりょうとしての価値かち大変たいへんたかい。

儒学じゅがく各派かくは足利学校あしかががっこう

桂庵玄樹けいあんげんじゅ薩南学派さつなんがくは 桂庵玄樹けいあんげんじゅ臨済宗りんざいしゅうそうで、みん時代じだい中国大陸ちゅうごくたいりくに7ねんほど滞在たいざいしていた。中国ちゅうごく朱子学しゅしがくまなび、日本にほんもどると朱子学しゅしがく啓蒙けいもうつとめた。また、自分じぶんみん留学りゅうがくしていたことから、遣明船派けんみんせんは

けんにも熱心ねっしんんだ。1478(文明ぶんめい10)ねんには、島津家しまづけ第十一代当主だいじゅういちだいとうしゅ島津忠昌しまづただまさ(1463-1508)にまねかれ、薩摩さつま市来いちき竜雲寺りゅううんじうつった。

島津忠昌しまづただまさ桂庵玄樹けいあんげんじゅせたのは、日向国ひゅうがのくに現在げんざい宮崎県みやざきけん)の安国寺あんこくじ再興さいこうし、このてらまかせるためだった。安国寺あんこくじ日明貿易にちみんぼうえき拠点きょてんである。島津忠昌しまづただまさ飫肥おびという地域ちいき重視じゅうしし、日明貿易にちみんぼうえき飫肥おびおおいにさかえた。そして、このに、宋学そうがく禅文化ぜんぶんか流入りゅうにゅうし、当時とうじ日本にほん最高さいこう国際文化都市こくさいぶんかとしとなったのである。

その学問がくもん最先端さいせんたんになったのが、「薩南学派さつなんがくは」である。桂庵玄樹けいあんげんじゅをはじめとする「薩南学派さつなんがくは」が唱導しょうどうした朱子学しゅしがくは、日本封建社会にほんほうけんしゃかい基本思想きほんしそうひとつとなっていった。また、桂庵玄樹けいあんげんじゅ弟子でしである儒者じゅしゃたちも活躍かつやくした。そのなか一人ひとりである南浦文之なんぽぶんし(1555-1620)は、せきはらたたかいのまえに、徳川家とくがわけとの交渉こうしょうかかわったり、中国ちゅうごくみん琉球りゅうきゅうとの外交文書がいこうぶんしょ作成さくせいしたりしていたという。

南村梅軒みなみむらばいけん海南学派かいなんがくは 「海南学派かいなんがくは」とは、土佐とさ現在げんざい高知県こうちけん)の朱子学しゅしがく一派いっぱで、「土佐南学とさなんがく」または「南学なんがく」ともばれる。室町時代末期むろまちじだいまっき儒者じゅしゃである南村梅軒みなみむらばいけん生没年未詳せいぼつねんみしょう伝説的要素でんせつてきようそい)が土佐とさ朱子学しゅしがくこうじたことにはじまる。そののち南村梅軒みなみむらばいけんおしえは、吸江庵きゅうこうあん忍性にんしょう雪渓寺せっけいじ天質てんしつ宗安寺そうあんじ如淵にょえんなどの禅僧ぜんそうがれた。さら天質てんしつまなんだ谷時中たにじちゅう(1598-1655)によって、江戸時代初期えどじだいしょき民間みんかんつたえられた。

谷時中たにじちゅう門人もんじんでは、野中兼山のなかけんざん(1615-64)、小倉三省おぐらさんせい(1604-54)、山崎闇斎やまざきあんさい(1619-82)が著名ちょめいである。闇斎あんさい没後ぼつごも、その弟子でし浅見絅斎あさみけいさい(1652-1712)や谷秦山たにじんざん(1663-1718)が南学なんがく発展はってんさせた。南学なんがくは、朱子学しゅしがく解釈かいしゃくだけではなく、義理名分ぎりめいぶん実践じっせん重視じゅうししており、土佐藩学とさはんがく中心ちゅうしんとなった。坂本龍馬さかもとりょうま(1836-67)、中岡慎太郎なかおかしんたろう(1838-67)など土佐勤王党とさきんのうとう志士ししおおくがこの学問がくもんながれをんでいる。

足利学校あしかががっこう 足利学校あしかががっこう鎌倉時代かまくらじだい下野国しもつけのくに足利庄あしかがのしょう現在げんざい栃木県とちぎけん足利市あしかがし)に創設そうせつされた教育機関きょういくきかんである。室町時代むろまちじだいから戦国時代せんごくじだいにかけては関東地方かんとうちほう最高学府さいこうがくふだった。室町時代むろまちじだいには一時衰退いちじすいたいしたが、1432(えい

きょう4)ねん足利あしかが領主りょうしゅになった上杉憲実うえすぎのりざね再興さいこう尽力じんりょくした。上杉うえすぎは、鎌倉円覚寺かまくらえんがくじ臨済僧りんざいそう快元かいげん(?-1469)を校長こうちょうまねいたり、蔵書ぞうしょ寄贈きぞうしたりした。この努力どりょくみのり、きた奥羽おううげん東北地方とうほくちほう中央部ちゅうおうぶ)、みなみ琉球りゅうきゅうから学生がくせいあつまり、おおいに学問がくもん機運きうんがった。

足利学校あしかががっこう儒学じゅがく中心ちゅうしんとしたが、易学えきがくさかんであった。ほか兵学へいがく医学いがくおしえた。戦国時代せんごくじだいには、易学えきがくなどの学問がくもんけ、戦国武将せんごくぶしょうつかえる足利学校あしかががっこう出身しゅっしん儒者じゅしゃもいた。学校がっこう学費がくひ無料むりょうで、学生がくせい入学にゅうがく同時どうじ僧侶そうりょになった。りょうはなく、ちかくの民家みんかせ、学校がっこうなか自分じぶんたちで食事しょくじ薬草やくそうつくった。

足利学校あしかががっこうは1872(明治めいじ5)ねん廃校はいこうになったが、1990ねん建物たてもの庭園ていえん復元ふくげんされており、当時とうじ姿すがたしのぶことができる。

第二節だいにせつ 北山文化きたやまぶんか東山文化ひがしやまぶんか

室町時代むろまちじだい文化ぶんかは、三代将軍さんだいしょうぐん足利義満あしかがよしみつ(1358-1408)の時代じだい北山文化きたやまぶんかと、八代将軍はちだいしょうぐん足利義政あしかがよしまさ(1436-90)の時代じだい東山文化ひがしやまぶんかけることができる。北山文化きたやまぶんかは、南北朝時代なんぼくちょうじだい活力かつりょく背景はいけいにしており、公家文化くげぶんか武家文化ぶけぶんか中国文化ちゅうごくぶんか影響えいきょうがある。一方いっぽう東山文化ひがしやまぶんか庶民的しょみんてきで、「わびわびさびさび」と禅宗ぜんしゅう影響えいきょうつよい。

いち建築けんちくから北山文化きたやまぶんか東山文化ひがしやまぶんか特色とくしょく

北山文化きたやまぶんか もっと代表的だいひょうてき建築物けんちくぶつ金閣寺きんかくじである。金閣寺きんかくじ正式名称せいしきめいしょうは、鹿苑寺金閣ろくおんじきんかくで、これは足利義満あしかがよしみつ北山きたやま現在げんざい京都市きょうとし北山区きたやまく)にてたものである。建物たてもの特徴とくちょうとしては、寝殿造しんでんづくり禅宗仏殿ぜんしゅうぶつでん融合ゆうごうさせたてんげることができる。1994(平成へいせい6)ねんには、文化財ぶんかざいとして世界遺産せかいいさん登録とうろくされた。

金閣寺きんかくじもっと有名ゆうめい建物たてものは、金色きんいろかがやく「舎利殿しゃりでん」である。これは三層宝形造さんそうほうぎょうづくり建物たてもので、内外ないがいともに漆地うるしじで、金箔きんぱくられている(三層さんそうのみ)。初層しょそうは「法水院ほっすいいん」という名称めいしょう寝殿造しんでんづくり二層にそうは「潮音洞ちょうおんどう」としょう書院造風しょいんづくりふうで、岩屋観音坐像いわやかんのんざぞう四天王像してんのうぞうかれている。三層さんそうは「究竟頂くっきょうちょう」としょうし、禅宗様仏殿風ぜんしゅうようぶつでんふうで、仏舎利ぶっしゃりがある。1950(昭和しょうわ25)ねん放火ほうかにより焼失しょうしつしたが、1955ねん再建さいけんされ、いまいたっている。

東山文化ひがしやまぶんか この文化ぶんか中心ちゅうしんは、東山ひがしやま現在げんざい京都市きょうとし左京区さきょうく)にてられた東山殿ひがしやまどのという山荘さんそうである。これは、八代将軍はちだいしょうぐん足利義政あしかがよしまさ建造けんぞうしたもので、義政よしまさ死後しご、その遺言ゆいごんによって禅寺ぜんでらとなり、「銀閣寺ぎんかくじ」としょうされるようになった。

銀閣寺ぎんかくじ正式名称せいしきめいしょう慈照寺銀閣じしょうじぎんかく)は、まさに東山文化ひがしやまぶんか代表的だいひょうてき建築けんちくで、禅宗仏殿ぜんしゅうぶつでん書院造しょいんづくりわさっている。一層いっそう住宅風じゅうたくふう書院造しょいんづくり二層にそう禅宗様ぜんしゅうよう唐様からよう)の仏殿ぶつでんである。また、慈照寺じしょうじなかには「東求堂とうぐどう」という四畳半よじょうはん座敷ざしきがある。この部屋へや義政よしまさ書斎しょさいであったが、初期しょき書院造しょいんづくりであり、茶室ちゃしつ起源きげん和風建築わふうけんちく原型げんけいわれている。現代げんだい日本にほんでも和室わしつえば、たたみ障子しょうじふすまとこなどから構成こうせいされるが、これは東山文化ひがしやまぶんかなか形成けいせいされたものである。にわも、枯山水かれさんすいばれる様式ようしき定着ていちゃくし、自然しぜんやまたにいし白砂はくしゃ象徴的しょうちょうてき表現ひょうげんするようになった。

村田珠光むらたじゅこうと「わび茶ちゃ

茶道さどうばれるのは、村田珠光むらたじゅこう(1422-1502)である。村田珠光むらたじゅこうは、30歳頃さいごろ禅僧ぜんそうとなった人物じんぶつで、能阿弥のうあみ(1397-1471)をかいして会所かいしょ当時とうじのサロン)での喫茶文化きっさぶんかのう連歌れんが影響えいきょうけ、また、臨済宗大徳寺派りんざいしゅうだいとくじは一休宗純いっきゅうそうじゅん(1394-1481)からぜんまなんだ。そして、のう連歌れんが精神せいしんぜんこころ追究ついきゅうし、「わび茶ちゃ」の精神せいしん確立かくりつしていった。さらに能阿弥のうあみつうじて足利義政あしかがよしまさい、政治せいじにも参加さんかした。

村田珠光むらたじゅこうつくした茶室ちゃしつは、四畳半よじょうはんで、書院造風しょいんづくりふうである。会所かいしょ

おもかざりだっただいを、きゃくまえ移動いどうさせ、ちゃてた。

室町時代むろまちじだい将軍家しょうぐんけでは唐物からもの賞玩しょうがんしており、茶席ちゃせきでは華麗かれい天目てんもく龍泉窯りゅうせんよう青磁茶碗せいじちゃわんとうとばれた。しかし、村田珠光むらたじゅこうは、ぜん精神せいしんから「わび茶ちゃ」を主張しゅちょうし、中国南方ちゅうごくなんぽう日用品にちようひんとして大量生産たいりょうせいさんされた黄褐色おうかっしょく退色たいしょく青磁碗せいじわん茶道具ちゃどうぐ使つかった。この茶碗ちゃわんは「珠光青磁茶碗じゅこうせいじちゃわん」とばれる。珠光じゅこうは、やす量産りょうさんされるこうした茶碗ちゃわんだからこそ「無心むしん」がうまれ、そこにあじわいがあるとかんがえたのである。村田珠光むらたじゅこうのこうした主張しゅちょう継承けいしょうされ、戦国時代せんごくじだいには、千利休せんのりきゅう(1522-91)によって「茶道さどう」が確立かくりつされることとなる。

さん雪舟せっしゅう狩野派かのうは水墨画すいぼくが

雪舟せっしゅう 応仁おうにんらん(1467)のなか京都きょうと知識人ちしきじんたちは地方ちほうのがれるものもいれば、海外かいがいけるものもいた。画家がか雪舟せっしゅう(1420-1506)は、このらんをきっかけにみんけたもの一人ひとりである。雪舟せっしゅうは、遣明使けんみんし随行ずいこうして、みんわたり、水墨画すいぼくがまなんだ。そして、日本にほん帰国きこくしたのち日本にほん水墨画すいぼくがおおきな衝撃しょうげきあたえ、「画聖がせい」とたたえられるようになる。

雪舟せっしゅうみん水墨画すいぼくがまなんだが、その作品さくひんは、中国風ちゅうごくふう山水画さんすいがだけではなく、人物画じんぶつが花鳥画かちょうがもえがきのこっている。大胆だいたん構図こうず力強ちからづよいタッチなど、その個性的こせいてき画風がふうへの評価ひょうかたかい。とく有名ゆうめい作品さくひんは『天橋立図あまのはしだてず』、『秋冬山水図しゅうとうさんすいず』などがある。六点ろくてんもの作品さくひん国宝こくほう指定していされるなど、おおくの日本にほん画家がかなかでもその評価ひょうかたかい。

狩野派かのうは 中国ちゅうごくから日本にほん水墨画すいぼくがつたえられたのは鎌倉時代かまくらじだいである。室町時代むろまちじだいはいると、次第しだい和風わふうになっていく。なかでも、水墨画すいぼくがにうまく和風わふう技法ぎほう融合ゆうごうさせるのが狩野派かのうはである。室町幕府むろまちばくふ御用絵師ごようえしとなった狩野正信かのうまさのぶ(1434-1530)が、その子孫しそん代々だいだい将軍しょうぐん絵師えしとしてつかえた。日本史上にほんしじょう最大さいだい画派がはである。円山応挙まるやまおうきょ(1733-95)や喜多川歌麿きたがわうたまろ(1753-1806)も狩野派かのうは出身しゅっしんである。

よんのう狂言きょうげん御伽草子おとぎぞうし

のう のう起源きげんは、奈良時代ならじだい中国ちゅうごくから伝来でんらいした散楽さんがくである。散楽さんがく当初とうしょくにによって保護ほごされていたが、8世紀頃せいきごろにこの保護ほごがなくなる。ここから散楽さんがくをしていた集団しゅうだん民間みんかんでもえんじるようになり、猿楽さるがくへと発展はってんしていく。猿楽さるがく物真似ものまね滑稽こっけい要素ようそをさらに強調きょうちょうしたもので、鎌倉時代かまくらじだいはいると、この猿楽さるがくからさらに田楽でんがく白拍子しらびょうし曲舞くせまいなどの芸能げいのう分化ぶんかした。これらいずれも歌舞かぶ要素ようそつよく、さらにこの時期じき中国ちゅうごくから女性じょせい歌舞かぶ流入りゅうにゅうし、融合ゆうごうする。これらの芸能げいのうをさらに「のう」という芸術げいじゅつにまでたかめたのが、観阿弥かんあみ(1333-84)とその息子むすこ世阿弥ぜあみ(1363-1443)である。観阿弥かんあみは、これらの芸能げいのう芸術げいじゅつたかめるためには、庶民性しょみんせいほか貴族性きぞくせい必要ひつようだとかんがえ、より洗練せんれんさせていった。

息子むすこ世阿弥ぜあみは、ちち影響えいきょうけ、また僧侶そうりょ中心ちゅうしんとした知識階級ちしきかいきゅうからたか教育きょういくけた。そして、そのげい才能さいのううつくしさによって、将軍しょうぐん足利義満あしかがよしみつ寵愛ちょうあいされた。世阿弥ぜあみ猿楽さるがく物真似ものまね部分ぶぶんして、独自どくじ幽玄世界ゆうげんせかい確立かくりつ目指めざした。そして、1399(応永おうえい6)ねん義満よしみつ援助えんじょ勧進能かんじんのうもよおし、あたらしい芸風げいふう披露ひろうした。また、芸術論げいじゅつろんにも熱心ねっしんで『風姿花伝ふうしかでん』(1400)などおおくの能楽書のうがくしょしるしている。幽玄美ゆうげんびこの当時とうじ支配階級しはいかいきゅう嗜好しこうわせたかれの「夢幻能むげんのう」は、おおくの観客かんきゃく魅了みりょうした。

狂言きょうげん 狂言きょうげんは、猿楽さるがくから分化ぶんかした喜劇きげきである。のうは、めん使つかった歌劇かげきだが、狂言きょうげんは、めん使つかわず動作どうさとセリフによる演劇えんげきである。そして、のう幽玄ゆうげん形式美けいしきび追求ついきゅうしたのにたいして、狂言きょうげん猿楽さるがく物真似ものまね滑稽こっけい部分ぶぶん発展はってんさせた。セリフも写実的しゃじつてきなものがおおいのが特徴とくちょうである。

室町時代むろまちじだい後期こうきには、大和猿楽系やまとさるがくけい本流ほんりゅうつたえる大藏流おおくらりゅう成立せいりつした。この流派りゅうは現在げんざいのこっており、3にん人間国宝にんげんこくほうしている。

御伽草子おとぎぞうし 御伽草子おとぎぞうしは、室町時代むろまちじだいあらわれたみじか絵入えいりの物語ものがたりのことで、広義こうぎには室町時代むろまちじだい中心ちゅうしんとした中世ちゅうせい小説全体しょうせつぜんたいすこともある(名称めいしょう成立せいりつ江戸時代えどじだい)。

御伽草子おとぎぞうしおおくは挿絵さしえはいっていて、物語ものがたりだけでなくたのしむ性格せいかくつよかった。文章ぶんしょうはやさしく、ストーリーも素朴そぼく単純たんじゅんである。この時代じだい庶民しょみん御伽草子おとぎぞうしによって、読書どくしょたのしんでいたのである。また、その単純たんじゅん文章ぶんしょううらには、当時とうじ世相せそうたいする風刺ふうし寓意ぐういられる。ここから当時とうじ民間信仰みんかんしんこうることもできるだろう。御伽草子おとぎぞうしはなしのほとんどは作者さくしゃ定説ていせつがない。そのおおくは日本にほん伝統でんとう物語文学ものがたりぶんがく民間伝承みんかんでんしょうをもとにしているとわれる。

文責ぶんせき徐興慶じょこうけい

確認かくにんしてみよう】

いちつぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

1. 北山文化きたやまぶんか室町幕府むろまちばくふ三代将軍さんだいしょうぐん(a. 尊氏たかうじ b. 義満よしみつ c. 義政よしまさ)の時代じだいさかえた文化ぶんかである。

2. のう連歌れんが精神的せいしんてき背景はいけい茶禅一味ちゃぜんいちみ精神せいしん追求ついきゅうし、「わび茶ちゃ」の精神せいしん確立かくりつした(a. 一休宗純いっきゅうそうじゅん b. 村田珠光むらたじゅこう c. 千利休せんのりきゅう)は、茶道さどうわれる。

3. (a. 雪舟せっしゅう b. 円山応挙まるやまおうきょ c. 喜多川歌麿きたがわうたまろ)は、十五世紀後半じゅうごせいきこうはん活躍かつやくした水墨画家すいぼくがか禅僧ぜんそうで、遣明使けんみんし随行ずいこうして中国ちゅうごくおもむいた。帰国きこくしたのち日本にほん水墨画すいぼくが一変いっぺんさせ、画聖がせいともたたえられる。

4. 五山ござんとは(a. 曹洞宗そうとうしゅう b. 臨済宗りんざいしゅう c. 真言宗しんごんしゅう)の寺院じいんのうち、幕府ばくふから最上位さいじょういみとめられた大寺院だいじいんである。

5. (a. 連歌れんが b. 和歌わか c. 御伽草子おとぎぞうし)は、室町時代むろまちじだい成立せいりつし、のち江戸時代えどじだい名称めいしょう定着ていちゃくした短編たんぺん絵入えい物語ものがたりである。

つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

6. 鹿苑寺ろくおんじ特徴とくちょうづけている金色きんいろかがや建物たてものは、(   )である。

7. 八代将軍はちだいしょうぐん足利義政あしかがよしまさ建造けんぞうした(   )は東山文化ひがしやまぶんか代表だいひょうする建築けんちくである。

8. (   )は、猿楽さるがく物真似ものまねなどの要素ようそはっする写実的しゃじつてき滑稽劇こっけいげきである。

9. 雪舟せっしゅう中国風ちゅうごくふう山水画さんすいがだけでなく、人物画じんぶつがや(   )も多数たすうえがいている。その大胆だいたん構図こうず力強ちからづよいタッチは評価ひょうかたかい。

10. ちち芸道げいどう継承けいしょう発展はってんした世阿弥ぜあみは(   )など、能楽書のうがくしょあらわした。

さんつぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

11. 北山文化きたやまぶんか特色とくしょくについてべなさい。

12. 東山文化ひがしやまぶんか特色とくしょくについてべなさい。

13. 村田珠光むらたじゅこうと「わび茶ちゃ」の発展はってんについてべなさい。

14. 「のう」と「狂言きょうげん」の発展はってんについてべなさい。

15. 御伽草子おとぎぞうしとはなにか、説明せつめいしなさい。

参考文献さんこうぶんけん

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